後光明天皇月輪陵
ごこうみょうてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Gokomyo)
【K-KT055】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1654(承応3)年10月30日、痘瘡により宝算22で崩御した第110代・後光明天皇〔在位:1643~54年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。なお、大葬の際、従来の火葬(荼毘)を改めて土葬の制が採用された。その後、昭和天皇に至るまで歴代天皇は土葬されている。
後水尾天皇の第四皇子で、母は園基任の女の園光子(壬生院)。諱は紹仁。幼名は素鵞宮。1643(寛永20)年10月3日、姉の明正天皇の譲位を受けて践祚、同月21日に即位礼を挙行した。東福門院(徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。
崩御前年から体調を崩し、末弟の高貴宮(後の霊元天皇)を猶子に迎えている。突然の崩御のため、後年には幕府による毒殺説も生じた。天皇の急な崩御により、次の天皇を立てる会議が開かれ、弟の花町宮良仁親王が中継ぎの天皇(後西天皇)となった。
後光明天皇は儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。また、天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重し奨励した。
幾つかの逸話が残る。天皇の剣術好きに対し京都所司代の板倉重宗が「関東へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と諌めると、天皇は「未だ武士の切腹を見たことがない。南殿に壇を築いて切腹せよ」と言い、重宗を大いに閉口させた。
天皇は常々「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因」と論じて、源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まなかった。また、「仏教は無用の学」と言うほどの仏教嫌いで、開けてはならないとされる三種の神器が収められた唐櫃を開け、鏡の他に仏舎利があるのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせたという。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:前期 |
---|---|
関連年号 | 1654年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
---|---|---|---|---|---|
後光明天皇 | K604 |
<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>