松平信康首塚〔若宮八幡宮〕
まつだいらのぶやす くびづか〔わかみやはちまんぐう〕(Kubizuka, Grave of Severed Head of Nobuyasu Matsudaira [in Wakamiya Hachimangu Shrine])
【K-AC227】探訪日:1990/3.17・2011/9.29・2023/8.27
愛知県岡崎市朝日町字森畔12
【MAP】
〔駐車場所〕
1579(天正7)年9月15日、織田信長より武田勝頼内通の疑いをかけられ二俣城で自刃させられた岡崎城主・松平信康の首塚である。享年21。首は信長の実検後に岡崎に返され、徳川家康の命で清水万五郎が投村根石原に埋め、印の松を植えた。
その後、岡崎城内には怪異現象が度重なったとされ、岡崎城代となった石川数正は1580(天正8)年、信康の供養塔を建て若宮八幡宮として祀ったという。なお、信康の胴は遠江国二俣の清瀧寺に葬られた。
近年、切腹の理由は家康や家臣団との対立という説が強い。『三河物語』に基づく通説は、織田信長の娘である徳姫が姑の築山殿や夫・信康とも不和で、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として赴いた酒井忠次も事実と認めたため、信長は家康に信康の切腹を要求した、というもの。しかし、信康は気性が荒く、盆踊りでの領民殺害や鷹狩りでの僧侶殺害などの乱暴・不行状が目立ち、築山殿は唐人医や甲斐国の口寄せ巫女を築山殿屋敷に出入りさせるなど、家康にとってふたりは悩みのタネとなっていた。さらには浜松城派と岡崎城派の派閥抗争も表面化しており、これが要因となり、家康判断で信康と築山殿の処断が行われたともいわれている。