河内大塚山古墳

かわちおおつかやまこふん(Kawachi Otsukayama-Kofun Tumulus)

【K-OS039】探訪日:2017/11.13

【K-OS039】河内大塚山古墳 大阪府松原市西大塚1丁目/羽曳野市南恵我之荘

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-OS039】河内大塚山古墳

   実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大塚陵墓参考地」として被葬候補者に第21代・雄略天皇が治定されている。規模は墳丘長335m、前方部幅230m,高さ4m、後円部直径185m,高さ20mを誇る巨大前方後円墳で、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)誉田御廟山古墳(応神天皇陵)上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵),そして備中造山古墳に次ぐ全国第5位に相当する。墳丘の周囲には比較的浅い濠がめぐらされている。
 6世紀後半に築造された大和王権の大王墓と考えられているが、被葬者を特定できていない。宮内庁のいう被葬候補者の雄略天皇は崩御年(5世紀後半)と築造時期が大きくずれている。このほか、敏達天皇が磯長陵から改葬されたという説、安閑天皇の真陵に比定する説、そして、欽明天皇陵として築かれたが改めて大和盆地に陵墓が築かれることになったために放棄されたとする説(被葬者自体が存在しない)などさまざまな見解がある。
 大正時代までは墳丘内に村が存在したが、1925(大正14)年に陵墓参考地となり、強制退去させられたといういきさつがある。かつて住んでいた人の証言から、後円部にある埋葬施設は横穴式石室である可能性が高いとされている。また見瀬丸山古墳,鳥屋ミサンザイ古墳などと同様に、前方後円墳の中でも古墳時代後期の一部に見られる「剣菱形」と呼ばれる特異な形状(前方部の中央がやや外側に突き出すように角ばっている構造)をしている。また、埴輪をもっていない。今城塚古墳と見瀬丸山古墳の中間に編年されうる。
 なお、大塚山古墳は古市古墳群の一つとされるが、百舌鳥古墳群と古市古墳群のおよそ中間地点、最も西寄りの離れた場所に存在するため、学術的には古市古墳群に該当しない見方もあり、世界文化遺産となった両古墳群のリストには含まれていない。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 伝承の時代(古墳時代:後期)
関連年号 6世紀後半
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
雄略天皇 K202 安閑天皇 K301

 

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 古墳時代の出来事については「古墳時代」を参照。

 

河内大塚山古墳(Googleマップ航空写真)

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墳丘全景(右:前方部・左奥:後円部) 前方部 左側に後円部を見る 前方部を東から見る 前方部 後円部の南側 後円部の南側