敏達天皇河内磯長中尾陵(太子西山古墳)
びたつてんのう こうちのしながのなかのおのみささぎ(たいしにしやまこふん)
(Kochi-shinaga-nakanoo Mausoleum of Emperor Bitatsu [Taishinishiyama-Kofun Tumulus])
【K-OS031】探訪日:2017/9.24
大阪府南河内郡太子町太子
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により585(敏達天皇14)年に崩御した第30代・敏達天皇と石姫皇女(敏達天皇の母で欽明天皇皇后)の合葬陵に治定されている。遺跡名は太子西山古墳といい、磯長谷に分布する磯長谷古墳群のうちでは唯一の前方後円墳になる。墳丘長さ113m、前方部幅67m,後円部直径58mである。出土埴輪等より古墳時代後期前半頃の築造と推定される。
572(敏達天皇元)年、前年の欽明天皇崩御を受け即位。初め百済大井宮(場所は諸説あり)を皇居としたが、575(敏達天皇4)年に卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮へ遷った。576(敏達天皇5)年には異母妹の額田部皇女(のちの推古天皇)を皇后に立てた。物部守屋が大連、蘇我馬子が大臣を務めたが、先に伝来した仏教については、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との対立が表面化する。天皇は廃仏派寄りであり、崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祀ると疫病が発生したため、585(敏達天皇14)年、守屋は天皇に働きかけ仏教禁止令を出させて仏像と仏殿を燃やさせた。天皇は同年8月15日、病が重くなり崩御した。年齢については数説あるが、48歳説が現時点では有力とされる。