敏達天皇訳語田幸玉宮伝承地
びたつてんのう おさたのさきたまのみや でんしょうち
(Osata-sakitama Palace Traditional Ruins of Emperor Bitatsu)
【P-NR028】探訪日:2022/7/2
奈良県桜井市戒重557
【MAP】
〔駐車場所〕
春日神社辺りは第30代・敏達天皇の宮跡とされる。初め百済大井宮(場所は諸説あり)を皇居としたが、575?(敏達天皇4)年に卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮へ遷った。『扶桑略記』『帝王編年記』に磐余訳田宮とあり、磐余地域に存在し、戒重村はかつて他田庄、春日神社も他田宮と呼ばれていたことから、ここが訳語田宮であった可能性が高い。また、このほかに桜井市太田地区にある天照御魂檸社も式内大社「他田坐天照御魂神社」とするところから候補地に挙げられている。なお、この訳語田幸玉宮は後に大津皇子の邸宅となり、さらには1341(興国2/暦応4)年に玉井西阿が開住城を築いたところでもある。
572(敏達天皇元)年、前年の欽明天皇崩御を受け即位。576(敏達天皇5)年には異母妹の額田部皇女(のちの推古天皇)を皇后に立てた。物部守屋が大連、蘇我馬子が大臣を務めたが、先に伝来した仏教については、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との対立が表面化する。天皇は廃仏派寄りであり、崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祀ると疫病が発生したため、585(敏達天皇14)年、守屋は天皇に働きかけ仏教禁止令を出させて仏像と仏殿を燃やさせた。天皇は同年8月15日、病が重くなり崩御した。年齢については数説あるが、48歳説が現時点では有力とされる。陵は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の河内磯長中尾陵に治定されている。