応神天皇恵我藻伏崗陵(誉田御廟山古墳)
おうじんてんのう えがのもふしのおかのみささぎ(こんだごびょうやまこふん)
(Egamofushinooka Mausoleum of Emperor Ojin [Kondagobyoyama-Kofun Tumulus])
【K-OS048】探訪日:2017/11.13
大阪府羽曳野市誉田6丁目
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により応神天皇41年に崩御した第15代・応神天皇の陵に治定されている。遺跡名は誉田御廟山古墳または誉田山古墳といい、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳である。墳丘長さ425m、前方部の幅300m,高さ32m、後円部は直径250m,高さ35mの前方後円墳であるが、内陸直下型の大地震で前方部の一部が崩れている。周りには二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48mの中提があり、その外に築造当時は幅約35mのもう一重の外濠があった形跡があり、それを巡る外提は幅約15mあったと推定されている。濠の水深は170~250cmと大仙陵古墳と比較してかなり深い。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけであり、東側の外濠や外堤は築造されなかったことが明らかになっている。
埴輪の種類が多く、円筒,キヌガサ,家,盾,甲,草摺,水鳥などがあり、内濠から土師器と共に魚形土製品が10個出土している。後円部側の外濠の外部では馬形埴輪なども出土している。直径74cmの笠形の木製の埴輪も副葬されていた。築造は5世紀初頭と考えられている。
応神天皇は、神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰または蚊田で生まれ、神功皇后が崩御した翌年に即位したとされ、軽島豊明宮を都とした。在位中には様々な渡来人が来朝し、彼らを用いて国家を発展させた。名のある渡来人には弓月君,阿直岐,王仁,阿知使主などがいる。宇治,吉野,吉備そして難波の大隅宮へ行幸し、大隅宮で崩御したとする説もある。宝算(年齢)は『日本書紀』では111歳、『古事記』では130歳。
なお、実在性については確定されてはいないが、4世紀後半から5世紀初頭に実在した最初の天皇の可能性が高いと見られている(宝算はともかく)。ただ、一方では第26代・継体天皇へとつなげるための布石(継体天皇は応神天皇の5世孫)としての架空の天皇であると実在性を否定する見方もある。
また、『宋書』,『梁書』に見える倭の五王の「讃」に比定する説がある。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡:外濠外堤(1978年10月30日指定) 世界文化遺産:古市古墳群(2019年7月6日登録) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 伝承の時代(古墳時代:中期) |
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関連年号 | 5世紀初頭 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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応神天皇 | K201 |
古墳時代の出来事については「古墳時代」を参照。
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