光孝天皇後田邑陵
こうこうてんのう のちのたむらのみささぎ(Nochinotamura Mausoleum of Emperor Koko)
【K-KT008】探訪日:1998/8.10
京都府京都市右京区宇多野御池町8
【MAP】
〔駐車場所〕
887(仁和3)年8月26日、58歳で崩御した第58代・光孝天皇〔在位:884~887年〕の陵である。宮内庁上の形式は円丘。小松山陵とも呼ばれる。江戸時代には陵の所在はまったく不明となっており、明治期になり現陵の場所に定められた。ただし、比定に確たる根拠はなく、仁和寺の西南にあたる現在の場所は文献記録と矛盾すると指摘されている。こことは別に、御室陵墓参考地(京都府京都市右京区御室大内)も光孝天皇が被葬候補者に想定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
光孝天皇は仁明天皇の第三皇子で、母は藤原総継の娘(贈皇太后沢子)。諱は時康。幼少より太皇太后・橘嘉智子の寵愛を受ける。843(承和10年)、元服して親王となり四品に叙せられた。以後、中務卿,式部卿,大宰帥,常陸太守など、親王が就任する慣例となっている官職のほぼ全てを歴任し、 882(元慶6年)に一品に叙せられ親王の筆頭となった。
陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち、55歳で即位した。陽成帝の次代を誰にするかの評定の席では、母方の従兄弟にあたる関白の藤原基経が時康親王を強く推し、同調した藤原諸葛が剣を抜いて諸衆を恫喝したため、異論は押さえ込まれた。即位後は基経を関白として、前代に引き続いて政務を委任した。光孝は、基経が自身の甥である貞保親王に天皇位を継がせるであろうと推測し、即位と同時に自身のすべての子女を臣籍降下させて、自身の子孫に皇位を伝えない意向を内外に表明していた。一方で、基経は妹であり貞保親王の母である高子と対立しており、貞保親王の立太子を妨害していたために次代の天皇の候補者が確定していなかった。やがて光孝は病を得、仁和3年8月25日に子息の源定省を皇籍に復し、翌26日に立太子させた。同日に天皇は、定省親王が践祚した(宇多天皇)。
宮中行事の再興に務めると共に、諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたとされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、即位後には相撲を奨励している。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:前期 |
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関連年号 | 887年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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光孝天皇 | K321 |