1247(宝治元)年に勃発した北条時頼,安達景盛と三浦泰村の勢力争いである宝治合戦において、敗れた三浦泰村が三浦一族など500余名と共に源頼朝の墓所である法華堂で自害した。
北条氏は源頼朝の死後、頼朝の挙兵から幕府創設の時期に活躍した有力御家人たちを次々と駆逐し、比企氏,畠山氏,和田氏に続き、北条氏と匹敵する勢力となったこの三浦氏を滅亡させ、北条得宗家による専制体制が確立させる(最後の安達氏は霜月騒動で滅亡)。
安達氏は頼朝の流人時代からの雄族であり、執権北条時頼の外戚でもあったものの三浦氏の風下に立たされており、これに強い不満を持っていたことから合戦へと誘導したとみられている。