顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵
けんぞうてんのう かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ(Kataoka-iwatsukinooka-minami Mausoleum of Emperor Kenzo)
【K-NR092】探訪日:2018/10.30
奈良県香芝市北今市
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により第23代・顕宗天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。また、奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地(遺跡名は築山古墳)では、顕宗天皇が被葬候補者に想定されている。
顕宗天皇(弘計王)と兄の仁賢天皇(億計王)はともに雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子の皇子で、播磨の国に逃亡して身を隠していた。しかし、弘計王が自ら新室の宴の席で王族の身分を明かしたことで、後継ぎのなかった清寧天皇(雄略の子)の希望で両皇子は宮中に迎え入れられた。皇太子となっていた兄の億計王は、清寧天皇が崩御すると、身分を明かした弟の弘計王を天皇にとしばらく皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政したという。
結果的に弘計が顕宗天皇として即位し、近飛鳥八釣に宮を営んだ。雄略天皇への復讐を考えたこともあったが、民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
なお、2皇子の発見譚に史実性を認める説がある一方、発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、その史実性が疑問視され実在しない架空の人物であるとする説もある。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 伝承の時代(古墳時代:中期) |
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関連年号 | 5世紀後半 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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顕宗天皇 | K202 | 仁賢天皇 | K202 | 飯豊青皇女 | K202 |
古墳時代の出来事については「古墳時代」を参照。
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