於牧の方墓所

おまきのかた ぼしょ(Grave of Omakinokata)

【K-GF017】探訪日:2020/11/29

【K-GF017】於牧の方墓所 岐阜県恵那市明智町東町1166-1

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-GF017】於牧の方墓所

   明智光秀の母とされる於牧の方の墓所は明知城跡の東の林の中にある。1743(寛保3)年に建てられた。
 於牧の方については出自含め不明な点が多く、その死についても史料があるわけではない。言い伝えによれば、1579(天正7)年、織田信長に丹波国攻略を命じられた明智光秀は波多野秀治が守る八上城を兵糧攻めにするが、波多野氏らは籠城を続け、光秀の母の人質と波多野一族の命の保証を条件に開城を受け入れた。しかし、安土を訪れた波多野秀治ら兄弟3人を信長は磔にした。これを知った八上城では光秀の母を磔にしたという。光秀が信長を討った理由の一つともいわれているが、定かではない。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 江戸時代:中期
関連年号 1579年 1743年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
於牧の方 **** 明智光秀 G142 波多野秀治 F95*
織田信長 OD04

 

【K-GF017】於牧の方墓所
 実は於牧の方の出自についてははっきりしていない。明智光秀の誕生は1528年とされ、これを正とすれば於牧の方は少なくとも1510年代以前の誕生と考えられる。しかし、於牧の方の父とされる若狭武田氏の武田信豊は1514年生まれであり時代的に矛盾を生じ、光秀の母とは考えにくくなる。光秀の母は叔母(父の妹)であり明智家に養子に入ったとする説もあるが、いずれもせよ謎多き家系である。また、於牧の方の磔に関しても史料が実在するものでもなく、後世に光秀が信長を討った理由のひとつとして作り出された話ともされている。 
 

【K-GF017】於牧の方墓所

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