野見宿禰塚跡
のみのすくね つかあと(Nomi-sukune Tsuka Ruins)
【K-NR105】探訪日:2022/7.2
奈良県桜井市出雲1520
【MAP】
〔駐車場所〕
旧伊勢街道から初瀬川を隔てた南の山腹、十二柱神社の南東350mほどの田の中に碑が建つ。実際の塚は1883(明治16)年までここから西南約150mのところ(出雲村大字太田小字塔)に在り、直径20m以上の塚(墓かどうか不明)で、その上に巨大な五輪塔(十二柱神社境内に現存)が置かれていたという。1883年には取り壊されたが、親子勾玉(子持勾玉),埴輪,直刀,土器などが出土し、塚の中にあった朱を捨てたところ、初瀬川が三日三晩、赤く染まったとの伝説が残されている。
野見宿禰の出身は出雲国ともここ出雲地区ともいわれるが、垂仁天皇の命により相撲神社で当麻蹴速と勅命天覧相撲(角力)をとり、互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って殺し、蹴速が領した大和国当麻の地を与えられるとともに、以後は垂仁天皇に仕えたとされる。また、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命の葬儀の際には、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣の姓を与えられ、以降土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったという。なお、上記の伝説は、土師氏が後世に野見宿禰を祖先として崇め、創作したものであるという見方もある。
野見宿禰は、『播磨国風土記』によれば播磨国揖保郡立野で病により死亡しその地で埋葬されたとされ、野見宿禰神社があり野見宿禰の塚もある。このほかにも鳥取市の大野見宿禰命神社と松江市の菅原天満宮にも野見宿禰の墓(分骨を納める)があり、大阪府高槻市の上宮天満宮には境内の野身神社に式内野身神社并野見宿禰墳の石柱が立つ。
なお、系図上、土師氏の子孫には菅原氏,柳生氏,前田氏,大江氏,毛利氏,酒井氏などがある。