武烈天皇泊瀬列城宮伝承地(十二柱神社)
ぶれつてんのう はつせのなみきのみや でんしょうち(じゅうにばしらじんじゃ)
(Hatsuse-namiki Palace Traditional Ruins of Emperor Buretsu [Junibashira Shrine])
【P-NR021】探訪日:2022/7/2
奈良県桜井市出雲1190
【MAP】
〔駐車場所〕
十二柱神社辺りから東方一帯が第25代・武烈天皇の宮跡とされる。西には雄略天皇が都とした泊瀬朝倉宮があったとされ、大和王権の重要な拠点であった。
仁賢天皇11年に仁賢天皇が崩御すると、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。そんな中、皇太子であった小泊瀬稚鷦鷯尊(のちの武烈天皇)は、物部麁鹿火の娘の影媛との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子の平群鮪と通じていた。海柘榴市の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を誅殺させ、真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位し壇場(高御座)を初瀬谷の中央、泊瀬列城に設けて都とした。大連には大伴金村を用いた。
『日本書紀』によれば、武烈天皇は日の暮れるまで政務にあたり、法令に通じて罪人を罰し、理非を判定し訴訟の審理は当を得ていたといわれる一方、さまざな酷刑や異常な行為が多かったとされる。ただ、『古事記』には悪虐非道の記述は一切見られず、真偽は不明である。
506?(武烈天皇8)年12月8日に列城宮で崩御したとされ、『扶桑略記』『水鏡』などに18歳とあるが不明な点が多い。陵は、宮内庁により奈良県香芝市の傍丘磐坏丘北陵に治定されている。なお、天皇には子がなく、仁賢天皇の娘の手白香皇女に応神天皇の5世孫とされる男大迹王を迎え皇位を継がせた(継体天皇)。
また、ここ出雲地区は垂仁天皇の時代に相撲で有名となった野見宿禰の出身地であり、関連する史跡が残る(野見宿禰五輪塔,野見宿禰塚跡,相撲神社)。