雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地(脇本遺跡)
ゆうりゃくてんのう はつせのあさくらのみや でんしょうち (わきもといせき)
(Hatsuse-asakura Palace Traditional Ruins of Emperor Yuryaku [Wakimoto Ruins])
【P-NR017】探訪日:2022/6/13・2022/7/2
奈良県桜井市脇本
【MAP】
〔駐車場所〕
1984(昭和59)年に発見された脇本遺跡は第21代・雄略天皇が営んだ朝倉宮として考古学的見地から有力な候補地とされている。このほか、候補地には桜井市黒崎地区の白山神社【P-NR018】,「天の森」【P-NR019】,磐坂谷の十二神社【P-NR020】が挙げられている。いずれも三輪山の南の旧伊勢街道沿いに存在する。
脇本遺跡は過去18次にわたり発掘調査が行われ、三輪山と外鎌山に挟まれた泊瀬谷の入口にあたる場所で春日神社辺りを中枢部として東西約300m,南北約250mの範囲に遺構が散在しているとされる。5世紀後半,6世紀後半,7世紀後半の大型建物跡などが発見され、5世紀後半の遺構は雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と推定されている(6世紀:欽明天皇の行宮跡、7世紀:大来皇女の斎宮跡と推定)。発見された南北方向の掘立柱建物2棟は脇殿で正殿は春日神社西側の集落内にあったと考えられている。私有地であるため現在はすべて埋め戻されている。
457?(安康天皇3)年8月、父である安康天皇が眉輪王に暗殺されると、大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)は眉輪王,兄弟,従兄弟を次々と殺害し、11月に帝位に就いた。即位後もこれまで権勢を振るってきた葛城氏や最大の地域豪族であった吉備氏を滅ぼし、専制政治を行った。軍事面,外交面では手腕を振るったが、やはり気性の激しい暴君的な所業が多く見られ、『日本書紀』には「大悪天皇」と誹謗されている。また、『宋書』等に記された5世紀末の倭王「武」を雄略天皇に比定する説が強い。
即位23年8月に病のため崩御した。『古事記』では享年124歳とされる。陵は丹比高鷲原陵。宮内庁により大阪府羽曳野市島泉の島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳),島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)に治定されている。