雄略天皇丹治高鷲原陵(島泉丸山古墳・島泉平塚古墳)
ゆうりゃくてんのう たじひのたかわしのはらのみささぎ(しまいずみまるやまこふん・しまいずみひらつかこふん)
(Tajihi-takawashinohara Mausoleum of Emperor Yuryaku [Shimaizumimaruyama-Kofun and Shimaizumihiratsuka-Kofun Tumulus])
【K-OS040】探訪日:2017/11.13
大阪府羽曳野市島泉8丁目4
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて第21代・雄略天皇の陵に治定されている。
島泉丸山古墳(または高鷲丸山古墳)は古市古墳群の北西部に築造された大型円墳である。直径約75m,高さ8mの2段築成で、円墳としては古市古墳群で最大であり、全国でも有数の規模になる。整備調査では埴輪,須恵器,土師器などが検出されている。墳丘周囲には周濠(丸山池)が巡らされており、南側は整美な円形をなすが、北側では不整形である。出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される。
島泉平塚古墳(または高鷲平塚古墳)は、丸山古墳の東南東約100mの位置にあり、一辺約50m,高さ8mの方墳、墳丘は2段または3段築成とされる。宮内庁により丸山古墳と合わせて雄略天皇の陵に治定されている。1864(元治元)年までは丸山古墳のみが雄略天皇陵とされ、平塚古墳の古墳域は小高い田畑であったという。同年に平塚古墳は雄略天皇前陵として陵域に取り込まれ、後年の修陵で両古墳は合わせて前方後円形に整形された。埋葬施設は明らかでない。なお、これまでに古墳であることを示す遺構,出土品は確認されておらず、古墳とすること自体に疑義を指摘する説もある。
丸山古墳の北方には宮内庁が陪塚とする飛地い号(隼人塚古墳)があり、天皇に殉死した隼人の墓に想定されている。一辺20mを測る方墳。
さらに、近年では雄略天皇陵とすること自体を否定する説が強く、雄略天皇陵は岡ミサンザイ古墳と推測されている。また、かつては雄略天皇の真陵を河内大塚山古墳に比定する説もあったが、近年では同古墳については古墳時代後期の築造とする説が定着している。
457?(安康天皇3)年8月、父である安康天皇が眉輪王に暗殺されると、大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)は眉輪王,兄弟,従兄弟を次々と殺害し、11月に帝位に就き、泊瀬朝倉宮を都とした。即位後もこれまで権勢を振るってきた葛城氏や最大の地域豪族であった吉備氏を滅ぼし、専制政治を行った。軍事面,外交面では手腕を振るったが、やはり気性の激しい暴君的な所業が多く見られ、『日本書紀』には「大悪天皇」と誹謗されている。また、『宋書』等に記された5世紀末の倭王「武」を雄略天皇に比定する説が有力である。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 伝承の時代(古墳時代:中期) |
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関連年号 | 5世紀後半 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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雄略天皇 | K202 |
古墳時代の出来事については「古墳時代」を参照。
島泉丸山古墳と島泉平塚古墳(Googleマップ航空写真)