高坂昌澄墓所〔長篠古戦場〕
こうさか まさずみ ぼしょ〔ながしのこせんじょう〕(Grave of Masazumi Kousaka [in Historic Battlefield of Nagashino])
【K-AC035】探訪日:2015/8/15・2019/4/6
愛知県新城市川路小川路13-5
【MAP】
〔駐車場所〕
『信長公記』『甲陽軍鑑』に拠れば、1575(天正3)年の三河遠征では、越後国の上杉謙信の抑えとして出陣できない父高坂昌信の代理として出陣し、山本勘蔵信供とともに長篠城を取り囲む城監視隊長としての役割を果たした。5月21日、武田軍総大将の勝頼は、織田,徳川の後詰軍との決戦を決意し、籠城軍への警戒に若干の軍勢を残して主戦力を設楽原へ移動させた。昌澄は警戒軍として長篠城の西岸の有海村での待機を命ぜられている。早朝、酒井忠次率いる織田徳川連合軍の別働奇襲隊によって鳶ヶ巣山の守備隊が壊滅すると、奇襲隊は昌澄の有海村駐屯軍へも襲い掛かり、昌澄は抗戦するが兵数で圧し潰され、25才の若さで討死を遂げた。