宣化天皇身狹桃花鳥坂上陵(鳥屋ミサンザイ古墳)
せんかてんのう むさのつきさかのえのみささぎ(とりやミサンザイこふん)
(Musanotsuki-sakanoe Mausoleum of Emperor Senka [Toriya Misanzai-Kofun Tumulus])
【K-NR081】探訪日:2018/10.29
奈良県橿原市鳥屋町33−2
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第28代・宣化天皇および皇后の橘仲皇女の合葬陵に治定されている。遺跡名は鳥屋ミサンザイ古墳で墳丘長138mの前方後円墳である。「ミサンザイ(見三才)」は「ミササギ(陵)」の転訛。古墳時代後期前半の6世紀前半頃(または中期後半の5世紀後半頃)の築造と推定され、当時としては大和で最大級の古墳である。墳丘は2段築成で墳丘1段目のくびれ部両側には造出を付し、前方部東側にも張出状施設を有する。墳丘表面では葺石,埴輪(円筒埴輪,朝顔形埴輪)が検出されており、墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされるが、後世の溜め池(鳥屋池)工事に際して大きく改変されている。埋葬施設,副葬品は明らかでない。
第27代の安閑天皇が崩御したとき、子がなかったために同母弟の檜隈高田皇子が満69歳にて即位し、宣化天皇となった。536年頃とされる。都は檜隈廬入野宮とし、在位が3年余り(539年崩御)のために事績は少ないが、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送っている。また、即位元年には蘇我稲目が大臣となり、その後続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。