崇峻天皇倉梯岡陵
すしゅんてんのう くらはしのおかのみささぎ
(Kurahashinooka Mausoleum of Emperor Sushun)
【K-NR017】探訪日:1995/4.1・2017/8.27・2022/6.13
奈良県桜井市倉橋
【MAP】
〔駐車場所〕
592(崇峻天皇5)年に蘇我馬子によって暗殺された第32代・崇峻天皇の陵墓に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。1876(明治9)年には東約400mほどにある雀塚と呼ばれる古墳が崇峻天皇陵として治定されたが、1889(明治22)年、この地に天皇の位牌を祀る金福寺があったことから現在の陵に改定された。しかし、近年では北東約1.7kmほどにある赤坂天王山古墳を崇峻陵とする見解が有力視されるようになっている。
崇峻天皇(泊瀬部皇子)は欽明天皇の第十二皇子で母は蘇我稲目の娘の小姉君であり、大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。5年後にはその馬子の指示で東漢駒によって暗殺させるが(天皇が暗殺された唯一の例)、その要因は、后妃問題,宗教政策,地方支配,対外戦争も含めた外交問題など複雑な対立があった。宮を倭王権成立以来の伝統的な地ではなく、倉梯柴垣宮という山間部に造営し臣下と距離を取ったこともその要因の一つとされる。