平岩親吉墓所〔平和公園内 平田院墓地〕
ひらいわちかよし ぼしょ〔へいわこうえんない ひらたいんぼち〕(Grave of Chikayoshi Hiraiwa [Hirata-in Cemetery in Heiwa Park])
【K-AC236】探訪日:2023/10.3
愛知県名古屋市千種区平和公園3丁目
【MAP】
〔駐車場所〕
1611(慶長16)年12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去した平岩親吉の墓所である。享年70。平和公園内の平田院墓域にある。
1542(天文11)年、三河国額田郡坂崎村に生まれ、松平竹千代(のちの徳川家康)と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従った。家康の信任は厚く、三河統一戦や遠江平定戦などで戦功があり、家康の嫡男・松平信康が元服すると、その傅役となったが、織田信長により信康の切腹が家康に要求されると(異説あり)、親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし信康の処断を防ぐことはできず、その責任を感じて蟄居謹慎する。後に家康に許され、再び直臣として復帰した。
1590(天正18)年の小田原征伐で戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後には甲府6万3,000石を与えられ、甲府城に在城し、徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、幼少かつ駿府にいる義直の守役・代理として甲斐統治を行った。1607(慶長12)年、義直が尾張藩主に転ずると、義直の附家老として尾張に移り、藩政を執行した。また犬山藩主として12万3,000石を領した。大名家平岩氏は1611(慶長16)年、親吉の死をもって断絶した。