小野但馬守政次供養塔

おのたじまのかみまさつぐ くようとう(Memorial Tower of Masatsugu Ono (Tajima no kami [the Governor of Tajima Province]))

【K-SZ031】探訪日:2023/2.4

【K-SZ031】小野但馬守政次供養塔 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷256

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ031】小野但馬守政次供養塔

   1569(永禄12)年4月7日、蟹淵にて獄門により処刑された小野但馬守政次の供養塔と伝わる石塔群である。政次は道好とも呼ばれる。5月7日には政次の子2人も処刑された。
 小野氏は、遠江国引佐郡井伊谷の国人・井伊家に家老として仕えたが、父・小野政直の代から井伊一門と反目しており、政次は井伊谷を横領しようと画策していた。1560(永禄3)年5月の桶狭間の戦い後、井伊家当主となった井伊直親を謀略により今川家臣に殺害させた(政次は直親が織田・徳川に内通し今川に謀反を起こそうとしていると今川氏真に訴え、直親が氏真へ陳謝に向かう途中に今川家臣の朝比奈泰朝が殺害)。井伊谷を預かっていた中野直由も亡くなり井伊谷城が無主となると、井伊家は直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)を当主とした。
 1566(永禄11)年、武田信玄が今川家の本国・駿河国に侵攻。政次は駿府で今川軍に従っていたが、氏真より井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう命じられる。政次はその命を奉じて井伊谷に入り、井伊家より井伊谷を横領した。虎松(井伊直親の子・のちの井伊直政)や次郎法師,祐椿尼(井伊直盛の後家)は井伊氏菩提寺の龍潭寺に入って難を逃れている。徳川家康は政次の専横に対し、近藤康用,鈴木重時,菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。政次は敗北して井伊谷から退去し近隣に潜伏していたが、1569(永禄12)年の家康の堀川城攻撃の際に捕縛され、井伊谷城東方の井伊谷川付近にある井伊家の仕置き場とされる蟹淵にて処刑された。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1569年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
小野政次(直好) ****

 

【K-SZ031】小野但馬守政次供養塔
 

 

【K-SZ031】小野但馬守政次供養塔

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小野但馬守の処刑場所 小野但馬守の処刑場所