順徳天皇大原陵

じゅんとくてんのう おおはらのみささぎ(Ohara Mausoleum of Emperor Juntoku)

【K-KT004】探訪日:1991/10.16

【K-KT004】順徳天皇陵 京都府京都市左京区大原勝林院町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT004】順徳天皇陵

   1242(仁治3)年9月12日、配所の佐渡にて宝算46で崩御した第84代・順徳天皇〔在位:1210~1221年〕の陵である。大原陵には、父の後鳥羽法皇も葬られている。宮内庁上の形式は円丘。
 崩御翌日に佐渡真野山にて火葬されたが(真野御陵)、1243(寛元元)年4月に遺骨は都に持ち帰られ、翌月に後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。堂は後に荒廃して所在も不明となったが、元禄探陵の際に当所が陵に擬定され、1889(明治22)年に正式に治定された。
 順徳天皇は後鳥羽天皇の第三皇子で、母は藤原範季の娘・重子(修明門院)。諱は守成。1210(承元4)年11月、後鳥羽上皇の強い意向により、兄で第83代の土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続された。直接政務に与らない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した。これは天皇自身に関わる有職作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事し、藤原俊成女や藤原為家とも親交があった。
 父・後鳥羽上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、1221(承久3)年4月に子の懐成親王に譲位(仲恭天皇)して上皇の立場に退いた。激しい気性の持ち主で、後鳥羽上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的であったが、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、順徳上皇は佐渡へと配流となる。
 在島21年の後、父・後鳥羽法皇崩御の翌年、1242年に佐渡で崩御した。鎌倉幕府が自分の皇子である忠成王を排除して土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたことで、自らの帰京と子孫への皇位継承に対する幕府の強い拒絶の意思を知った上皇が絶食による事実上の自殺を図った可能性も指摘されている。配流後は佐渡院と称されていたが、1249(建長元)年7月20日順徳院と諡された。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号 1242年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
順徳天皇 K331

 

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