千姫墓所〔知恩院〕
せんひめ ぼしょ〔ちおんいん〕(Grave of Sen-hime [in Chion-in Temple])
【K-KT017】探訪日:2003/10/16
京都府京都市東山区粟田口三条坊町1−4
【MAP】
〔駐車場所〕
1666(寛文6)年2月6日、波乱の人生を歩み江戸で死去した千姫の墓所である。享年70。墓所は小石川伝通院と天樹院弘経寺(茨城県常総市)にあり、知恩院には分骨され宝塔に納められた。知恩院は松平家(徳川家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である。
千姫は1597(慶長2)年4月11日、徳川秀忠と江の長女として伏見城内の徳川屋敷で生まれ、7歳で豊臣秀頼と結婚し大坂城に入った。大坂夏の陣では、徳川家康の命により落城する大坂城から救出された。1616(元和2)年には本多忠刻と再婚。翌年、本多家が播磨姫路に移封になると姫路城に移り、播磨姫君と呼ばれるようになった。翌1618(元和4)年には長女・勝姫が生まれるも、以降は次々と不幸が続き、本多家を勝姫と共に去ることとなり、江戸で出家し天樹院と号した。出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らしたが、1628(寛永5)年に勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。その後、弟の徳川家光の3男・綱重と暮らすようになり、綱重を養子にすることで大奥に対して大きな発言権を持つようになった。
豊臣秀頼,本多忠刻とは夫婦仲睦まじく、祖父・家康や父・秀忠からも可愛がられ、また、弟の家光とも姉弟仲は良好で、孫の奈阿姫も祖母の菩提を弔うために「浄土三部経」を書き写し弘経寺に納めている。