天海大僧正廟所(慈眼堂)
てんかいだいそうじょう びょうしょ(じげんどう)
(Mausoleum of Tenkai Daisojo (a Buddhist Priest of the Highest Order) [Jigendo])
【K-SG006】探訪日:2016/10.15
滋賀県大津市坂本4丁目6ー1
【MAP】
〔駐車場所〕
1643(寛永20)年、一説には108歳で没したとされる天海大僧正(南光坊天海)を祀る廟所、慈眼堂である。徳川家光によって1646(寛永23)年に滋賀院門跡の南西に建立された。死後5年後に朝廷より慈眼大師号を追贈された。
前半生は不明な点が多いが、1588(天正16)年に武蔵国の無量寿寺北院(のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。江戸崎不動院の住持も兼任し、北条攻めの際には天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたという。1599(慶長4)年、北院の住職となり、その後は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。
確たる証拠はないが、1603(慶長8年)、徳川家康は幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。1625(寛永2)年、天海は江戸城の鬼門・北東方向に寛永寺を創建した(裏鬼門には増上寺がある)。
また、大坂の陣の発端となった1614(慶長19)年の方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。さらに1616(元和2)年、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を天海大僧正らに託す。家康死後には神号を巡り、以心崇伝,本多正純らの主張する「明神」を退け、天海の「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
天海は生前に日本での一切経(大蔵経)の印刷と出版を企図し、死後の1648(慶安元)年には、『寛永寺版大蔵経』が幕府の支援により完成した。天海が作製させた膨大な木製活字(天海版木活字26万個以上)は日本の印刷文化史上、最も重要な業績の一つといわれている。