平賀源内墓所〔自性院〕
ひらがげんない ぼしょ〔じしょういん〕(Grave of Gennai Hiraga[in Jisho-in Temple])
【K-KG002】探訪日:2019/7/20
香川県さぬき市志度
【MAP】
〔駐車場所〕
1780(安永8)年12月18日に投獄中に破傷風により獄死した平賀源内の墓とされる。ただし、死亡については異説もある。
源内は1728(享保13)年に讃岐国寒川郡志度浦の高松藩の足軽身分の家・白石家の3男として生まれた。源内は通称で諱は国倫という。生涯、多方面に活躍し数多くの号を使い分けた。草学者,地質学者,蘭学者,医者,殖産事業家,戯作者,浄瑠璃作者,俳人,蘭画家,発明家として知られ、画号の鳩渓,俳号の李山をはじめ、戯作者としては風来山人,浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内などといった別名でも知られていた。1776(安永5)年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元したことは有名である。
1779(安永8)年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷してしまい、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。友人の杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし、晩年については異説もあり、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いまだにはっきりとはしていない。
墓所は浅草橋場にあった総泉寺に設けられたが、ここ自性院(平賀氏菩提寺)の墓所は、源内の義弟の平賀権太夫が、義兄の源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたものと伝えられる。一般には橋場の墓が葬墓で、志度の墓が参墓といわれている(異説の場合は逆)。