源頼政墓所
みなもとのよりまさ ぼしょ(Grave of Yorimasa Minamoto)
【K-KT005】探訪日:1990/12/1
京都府宇治市宇治蓮華116
【MAP】
〔駐車場所〕
1180(治承4)年5月26日、以仁王の挙兵に際し以仁王に与した源三位頼政は平氏の追っ手に対し平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、辞世の句を残して扇之芝にて渡辺唱の介錯で腹を切って自刃した。享年77。墓所は最勝院境内にある。
辞世の句:埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける
源三位頼政は1156(保元元)年の保元の乱では天皇方に与し勝者の側となった。さらに、1159(平治元)年12月、藤原信頼らの院政支持派と天皇親政派が、藤原信西政権へのクーデターを起こして信西を殺害、権力を掌握した(平治の乱)。頼政は天皇親政派としてクーデターに参加したが、実権を握った信頼らの院政支持派は天皇親政派とすぐに対立し、天皇親政派は二条天皇を内裏から脱出させて六波羅の平清盛陣営へ迎えた。多くの源氏が没落する中、頼政は保元の乱と平治の乱で勝者側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛からも信頼され、1178(治承2)年、清盛の推挙により武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。翌年11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。
しかしこの頃には平氏政権と後白河院政との間で軋みが生じていた。鹿ケ谷の陰謀事件や治承三年の政変があり、1180(治承4)年2月には、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉帝と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。皇位への望みを全く絶たれた以仁王(後白河法皇の第三皇子)は、これに強い不満を抱く。頼政はこの以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画した。
同年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は以仁王の逮捕を決めた。以仁王は園城寺へ脱出して匿われたが、5月21日に平氏は園城寺攻撃を決める(この時点では頼政の関与は露見していない)。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱,兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流し平氏打倒の意思を明らかにした。しかし、平氏の園城寺懐柔工作で25日夜には園城寺も危険になり、頼政は以仁王とともに南都興福寺へ向かうが、以仁王が疲労で落馬し、途中の宇治平等院で休息を取った。そこへ平氏の大軍が攻め寄せる。26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱,宗綱や兼綱が次々に討死にあるいは自害し、頼政も平等院扇之芝で腹を切って自刃した。なお、頼政の末子の広綱や、仲綱の子の有綱,成綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した頼朝の幕下に参加している。