称徳天皇高野陵
しょうとくてんのう たかののみささぎ (Takano Mausoleum of Empress Shotoku)
【K-NR068】探訪日:2018/10.3
奈良県奈良市山陵町324
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により770(神護景雲4)年に崩御した第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇重祚)の陵に治定されている。遺跡名は佐紀高塚古墳で、墳丘長127m,後円部直径84m,前方部幅70m三段築成の前方部を西方向に向け前方後円墳である。本格的な調査はなされておらず、埋葬施設,副葬品も詳らかでない。古墳時代前期後半の4世紀代の築造と推定され、称徳天皇の崩御とは時代が合わない。真陵の位置は西大寺の寺域西限の地に存在したと推定される(現陵は西大寺の東)。
称徳天皇は史上6人目の女性天皇で、聖武天皇の皇女であった阿倍内親王は738(天平10)年に史上唯一の女性皇太子となり、749(天平勝宝元)年、聖武天皇の譲位により即位した(孝謙天皇)。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見した。この頃から皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大していくが、仲麻呂は独断政治に奔り、やがて藤原仲麻呂の乱で滅亡していく。仲麻呂が推した第47代・淳仁天皇も廃位となり、孝謙上皇は事実上、皇位に復帰し、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の出家のままで即位した天皇である。以降、称徳天皇と道鏡による二頭体制の政権運営が6年間にわたって続くことになる。
称徳天皇は仏教重視の政策を重視し、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合も進めた。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方では、政治と刑罰が厳しく些細なことで極刑が行われ、冤罪を産んだとされている。特に罪人として強制改名したことは有名である。橘奈良麻呂の乱では麻度比(道祖王),久奈多夫禮(黄文王)、不破内親王の呪詛事件では厨真人厨女(不破内親王),志計志麻呂(氷上川継)、宇佐八幡宮神託事件では別部穢麻呂(和気清麻呂),別部狭虫(和気広虫)など。
770(神護景雲4)年3月半ばに発病し、 8月4日、平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。ほどなく道鏡も失脚して下野国薬師寺別当に左遷された。