和気宗勝,高坂助宣,横田康景,小山田昌晟墓所〔長篠古戦場〕
わけ むねかつ,こうさか すけのぶ,よこた やすかげ,おやまだ まさあきら ぼしょ〔ながしのこせんじょう〕
(Graves of Munekatsu Wake, Sukenobu Kosaka, Yasukage Yokota, Masaakira Oyamada [in Historic Battlefield of Nagashino])
【K-AC067】探訪日:2019/4/6
愛知県新城市有海稲場2
【MAP】
〔駐車場所〕
いずれも1575(天正3)年の長篠設楽原の戦いで武田軍として討死した武将である。墓碑はもともと各々別の場所にあったが、新東名高速道路の建設のために、ここ新昌寺本堂裏に移設されたとのこと。向かって右から、和気善兵衛宗勝,高坂又八郎助宣,横田十郎兵衛康景,小山田五郎兵衛昌晟の墓碑である。隣には、大きな鳥居強右衛門勝商墓所がある。
和気宗勝は、主将として久間山砦の守備をしていたが、5月21日夜明けの酒井忠次別働隊に背後を突かれ、炎に包まれ火中に身を投じて自害したとも、有海まで逃れて討死したともいわれている。
高坂助宣の墓は竹広の胴切山にも山県昌景らの墓と並び存在する。こちらの墓碑には「伝」と付されている。
横田康景の墓も天王山の内藤昌豊墓所の近くにある。遺子となり、後に江戸幕府の旗本となった横田尹松が父のために有海に塚をつくったとあり、墓碑がここへ移設されてきた可能性がある。
小山田昌晟については討死の状況は定かでない。5月21日、武田本隊が設楽原へ進撃するなか、長篠城の監視隊として残留していたが、鳶ヶ巣山砦が酒井忠次別働隊によって落とされると、長篠城包囲を解き本隊へ合流する途中に有海原で追撃兵に討たれたとする説や、本陣付きで設楽原で戦っていたが、退却中に酒井忠次隊,長篠城兵らと遭遇し激戦の末、討死したという説がある。墓は別の場所に横田康景の碑と並び建てられていた。