山県昌景,昌次墓所〔長篠古戦場〕

やまがた まさかげ,まさつぐ ぼしょ〔ながしのこせんじょう〕(Graves of Masakage and Masatsugu Yamagata [in Historic Battlefield of Nagashino])

【K-AC039】探訪日:2015/8/15

2019/4/6

【K-AC039】山県昌景,昌次墓所〔長篠古戦場〕 愛知県新城市竹広498 

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC039】山県昌景,昌次墓所〔長篠古戦場〕

   1575(天正3)年5月6日、長篠に侵攻した武田勢は長篠城を包囲したが、山県昌景隊300騎と高坂隊300騎は遊軍として有海村に集結した。設楽原の決戦に先立っての偵察の結果、馬場信房や内藤昌豊と協議し戦局不利と武田勝頼に退却を進言したが、聞き容れられなかった。
 5月21日の決戦では、山県昌景は武田信豊の指揮下に入り左翼隊の主力として徳川方の大久保忠正隊を攻撃、弾正山の徳川家康本陣へ向かって突入したが戦死した。戦死の様子については定かでなく、徳川方の射撃により全身に被弾(17ヶ所とも)したが馬から落ちずに采配をくわえたまま絶命した説や徳川方の鉄砲の名手大坂新助の2発目が昌景の兜の眉に命中し落馬して討死した説、また、馬を撃たれて落馬し家臣の志村又右衛門によって胴切山に運ばれたが死亡していたとする説がある。いずれにせよ、遺体は胴切山に葬られている。
 山県昌次は昌景の嫡男であるが、父の討死を知り、直ちに刀を取り馬から降りて父のもとへ向かったが、すでに従士の名取又左エ門道忠が昌景の首を抱いて立ち去っており、周りは敵だらけとなったため、昌次は父討死の地で割腹し殉死したとされている。胴切山には、山県昌景とともに山県昌次,従士名取又左エ門道忠の墓が並ぶ。また、同所には高坂助宣の墓もある(新昌寺にも伝高坂助宣の墓がある)。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1575年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山県昌景 G121 山県昌次 **** 名取又左エ門道忠 ****
高坂助宣 **** 武田信豊 G424 大坂新助 ****
志村又右衛門 ****

 

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▲墓所への登り口

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▲山県昌景と義士の墓

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▲山県昌次,従士名取又左エ門道忠と高坂助宣の墓