仏陀寺古墳(伝蘇我倉山田石川麻呂墓所)
ぶっだじこふん(でん そがのくらやまだのいしかわまろ ぼしょ)(Buddaji-Kofun Tumulus [Grave of Ishikawamaro Soganokurayamadano])
【K-OS034】探訪日:2017/9.24
大阪府南河内郡太子町山田2820
【MAP】
〔駐車場所〕
仏陀寺(鎌倉時代以前の創建)の境内にあり、蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられる。一辺約10mの方墳で墳丘はほとんど崩れている状態であり、内部は長さ約1.92mの横口式石槨が露出している。
このほか、蘇我倉山田石川麻呂の墓の伝承地は岐阜県各務原市蘇原宮塚町にもあり、帯解黄金塚陵墓参考地を石川麻呂の墓所ではとする説もある。
石川麻呂は蘇我馬子の孫,蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。兄弟に日向,赤兄,連子,果安がいる。645年、飛鳥板蓋宮を舞台とする乙巳の変の際には、中大兄皇子,中臣鎌足らの計画に賛同し、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その後の改新政府では右大臣に任命されている。649(大化5)年、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲したため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。