吉良満義・一色有義墓所〔安休寺〕

きらみつよし・いっしきありよし ぼしょ〔あんきゅうじ〕(Graves of Mitsuyoshi Kira and Ariyoshi Isshiki [in Ankyu-ji Temple])

【K-AC246】探訪日:2024/8.19

【K-AC246】吉良満義・一色有義墓所 愛知県西尾市一色町一色中屋敷2 

【MAP】

〔駐車場所〕参詣者用駐車場がある。

【K-AC246】吉良満義・一色有義墓所

   1356(正平11年/延文元)年9月23日に死去した西尾城主の吉良満義と、その次男で吉良流一色氏の始祖となり1383(弘和3/永徳3)年に没した一色有義の墓所である。安休寺の本堂裏手の墓地に並ぶ。なお、吉良満義の墓所は花岳寺にもある。
 吉良満義は元弘の乱で倒幕の兵を挙げた足利尊氏に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加。以降、1336(延元元)年の南北朝の分裂までの間、尊氏・直義に従い各地を転戦する。観応の擾乱では、直義側に立ったとされるが、近年では、満義は尊氏に与していたのではないかという見方もでてきている。晩年は京都東福寺,三河国実相寺の仏海禅師(一峰明一)と緊密な関係にあったらしく、仏教に深く帰依していた。1356年9月23日、死去。翌年、次男の一色有義が父の菩提を弔うために安休寺を創建した。
 一色有義は三河国幡豆郡吉良荘内の一色郷を領したことから、一色殿と呼ばれた。有義以前、一色の地は足利泰氏の子である一色公深及びその子頼行が本貫の地としていたが、早い段階で関東へ移り住んだため、吉良氏が領することになった。赤羽根城に居住したと伝わる。観応の擾乱にいたるまで父・満義,兄・満貞と行動を共にしたとみられるが、『太平記』などの軍記物語にも登場せず詳細は不明である。また、有義の子孫についても系図が残っていない。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 南北朝時代
関連年号 1356年・1383年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
吉良満義 G357 一色有義 G357

 

【K-AC246】吉良満義・一色有義墓所
  

 

【K-AC246】吉良満義・一色有義墓所

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