禎子内親王圓乗寺東陵
さだこないしんのう えんじょうじのひがしのみささぎ(Enjoji-higashi Mausoleum of Princess Sadako)
【K-KT006】探訪日:1998/8.10
京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町
【MAP】
〔駐車場所〕
1094年2月3日(寛治8年1月16日)、第69代・後朱雀天皇の皇后で疱瘡にて享年82で崩御した禎子内親王の陵である。後三条天皇陵,後朱雀天皇陵とともに龍安寺の北に位置する。
禎子内親王は、第67代・三条天皇の第3皇女で、母は摂政藤原道長女・中宮妍子。院号は陽明門院。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇),伊勢斎宮良子内親王,賀茂斎院娟子内親王がいる。
1027(万寿4)年、皇太子・敦良親王に入内。1037(長元9)年、夫の敦良親王が即位(後朱雀天皇)し、中宮に冊立され、翌年3月には皇后宮に転じる。1045(寛徳2)年に後朱雀天皇が崩御。後冷泉天皇が即位し、尊仁親王が立太子する。同年7月、禎子は出家する。 1051(永承6)年、皇太后となる。1068(治暦4)年の後冷泉天皇崩御により、尊仁親王が後三条天皇として即位するとともに太皇太后となる。翌年、女院を宣下され陽明門院を号した。この頃には、禎子も国母として、かつての上東門院彰子にも劣らぬ影響力を持つに至った。
ところが、後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、父の遺命に背き、我が子・善仁親王(のちの堀河天皇)への譲位を強行したため、陽明門院が激怒して一時両者の間が疎遠となる。白河上皇は篤子内親王(後三条天皇皇女・陽明門院の養女)を堀河天皇に入内・立后させることで、実の祖母(陽明門院)と和解した。陽明門院はこれを見届けたのち、1094(寛治8)年、疱瘡で崩御。享年82。
なお、「ていし」は仮名であって、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:後期 |
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関連年号 | 1094年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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禎子内親王 | K327 |