板垣退助墓所
いたがきたいすけ ぼしょ (Graves of the Taisuke Itagaki Family)
【K-KC001】探訪日:2019/7/21
高知県高知市薊野東町14
【MAP】
〔駐車場所〕
1919(大正8)年7月16日に83歳で死去した板垣退助をはじめとする板垣家,乾家の先祖,親族の墓所である。退助はもともと東京都品川神社裏の旧高源院に葬られたが、1968(昭和43)年に分骨され、この通称「板垣山」に埋葬された。退助の第3番目の正妻・鈴の墓が退助の墓の横に並ぶ。墓地には戦国時代に甲斐武田氏の宿将であった板垣信方からの正信を初代とする乾家(板垣の旧姓)代々の墓が約30基余り並んでいる。
退助は20歳の頃には粗暴な行いがもとで藩庁から城下追放の処分を受けたが、戊辰戦争では東北各地に転戦して功績をあげ、戦後は高知藩大参事を経て、明治新政府の参議になった。しかし、1873(明治6)年10月に西郷隆盛らと征韓論を唱えて野に下り、翌年春に高知に帰って立志社を創立し自由民権運動の先頭に立った。伊藤内閣,大隈内閣では内務大臣の要職に就き、1900(明治33)年に政界を引退した後は、社会改良運動に晩年を捧げた。
1882(明治15)年4月6日に岐阜での遊説中に暴漢に襲われ負傷した際に叫んだとされる「板垣死すとも自由は死せず」は有名である。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 大正時代 | 昭和時代:後期 |
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関連年号 | 1919年 | 1968年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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板垣退助(正形) | G426 | 板垣信方 | G426 | 乾 正信 | G426 |
訪れたのは2019年7月。階段を上ると、新しい板垣退助の墓のほかに、大小の墓が雑然と並んでおり、また、なかには傾いたり破損した古い墓もあり、「えっ、ここがあの板垣(乾)家の墓・・・」と一瞬戸惑った。配置を示した説明プレートはあるものの誰の墓なのか分かりづらかった(甲斐武田家に仕えた板垣信方の墓にここで出会えたのは感動したが)。その後、2021年になり、駐車場含めて板垣山墓所の整備が行われているという新聞記事を目にしたときには安心した。板垣死すとも墓所は整備してほしい。
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▲板垣退助と前妻・鈴の墓
▲中央は乾正祐、手前は武田氏宿将の板垣信方の墓跡
▲中央は乾氏初代の正信の墓
▲手前は4代・乾正方の妻の墓、隣は正信の墓
▲5代・乾正清の墓(左)と妻の墓
▲左から乾正信の妻,正祐の妻,正清の後妻の墓
▲右から8代・乾信武と妻、9代・正成と妻,後妻(林氏)の墓
▲退助の墓左に正成の後妻(近藤氏)の墓と後方に子供の墓
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