植山古墳
うえやまこふん(Ueyama-Kofun Tumulus)
【K-NR169】探訪日:2022/9.11
奈良県橿原市五条野町1083
【MAP】
〔駐車場所〕
丘陵の南斜面を利用し、墳丘部分を削り出して築かれた東西40m,南北27mの長方墳で、東西に2つの横穴式石室が並ぶ双室墳である。墳丘の東,西,北はコの字状に周濠が廻っている。築造時期は終末期の6世紀末~7世紀前半と推定される。被葬者は、山田高塚古墳へ改葬される前の推古天皇とその子息・竹田皇子ではないかといわれている。『日本書紀』には、628年、推古天皇は先に亡くなった子息の竹田皇子の墓に合葬されたとあり、『古事記』の「大野岡上陵」とみられる。推古天皇は最初、自分の遺言で夭折した息子の墓に合葬されたものの、やはり帝にふさわしい規模の陵墓が必要ということで、蘇我氏の勢力範囲である磯長谷に新しい陵墓が造営され、2人の遺骸が移されたと考えられる。
東石室は両袖式で、石室長13m,玄室長さ6.5m,幅3.0m~3.2m、天井石は失われているが残存高3.1m、羨道の長さ6.5m,幅1.9m,高さ2.2mの規模である。玄室には抜き式の家型石棺が置かれていた。排水溝からは、馬具の金銅製歩揺付飾金具,大刀の飾りにあたる水晶製三輪玉が見つかっている。東石室は6世紀末頃に築造されたと推定される。
西石室も袖幅がほとんどないが両袖式で、石室長13m,玄室の長さ5.2m,幅2.5m、こちらも天井石がほとんど失われているが、高さ4.5m,羨道の長さ7.8m,幅2.3m,高さ2.0mの規模である。玄室から阿蘇溶結凝灰岩の破片が見つかっていることから石棺が安置されていた可能性が考えられる。西石室からは須恵器が出土しており、石室の特徴と須恵器から7世紀前半のなかでも古い段階に築かれたと考えられる。
なお、古墳の背面の丘陵上には二時期の掘立柱列が存在しており、古墳と外部を隔てる塀のような施設であったと考えられるが、植山古墳の重要性を物語る要素のひとつである。
現在は埋め戻されて、歴史公園となっている。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(2002年3月19日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 飛鳥時代 |
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関連年号 | 6世紀末・7世紀前半(628年) |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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推古天皇 | K302 | 竹田皇子 | K304 |
植山古墳発掘調査写真(『橿原市埋蔵文化財調査報告 第9冊』より編集)