推古天皇磯長山田陵(山田高塚古墳)
すいこてんのう しながのやまだのみささぎ(やまだたかつかこふん)
(Shinaga-yamada Mausoleum of Empress Suiko [Yamadatakatsuka-Kofun Tumulus])
【K-OS003】探訪日:2017/9.24
大阪府南河内郡太子町山田
【MAP】
〔駐車場所〕
子の竹田皇子との合葬陵墓で、遺跡名は「山田高塚古墳」、方墳または長方墳である。『延喜式』諸陵寮では、「磯長山田陵」として記載され河内国石川郡の所在とする。その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している。なお、現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もある。
額田部皇女(後の推古天皇)は第29代欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目の女・堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。576年4月23日、18歳で異母兄の敏達天皇の皇后に立てられ、菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃),竹田皇子ら2男5女を儲けた。585年9月に敏達天皇が崩御され、翌586年5月には敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が侵入した事件もあった。その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、587年5月に崩御。その皇位継承をめぐり、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏が勝利し泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位する。しかし、5年後の592年12月、馬子の指図によって崇峻天皇は暗殺されてしまい、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて豊浦宮において即位した。推古天皇である。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった。皇太后と蘇我馬子は実子の竹田皇子の擁立を願ったが、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子擁立論の勢力が強まったため、額田部皇女は竹田皇子への中継ぎとして即位したのだといわれている(だが、竹田皇子は間もなく薨去)。
推古天皇は頭脳明晰な人で、甥の厩戸皇子を皇太子として万機を摂行させ、大臣蘇我馬子との勢力の均衡を保ちつつ、豪族の反感を買わぬように巧みに王権の存続を図った。そして、628年3月7日、75歳で小墾田宮において崩御された。