清寧天皇河内坂門原陵(白髪山古墳)
せいねいてんのう こうちのさかどのはらのみささぎ(しらがやまこふん)
(Kochi-sakadonohara Mausoleum of Emperor Seinei [Shiragayama-Kofun Tumulus])
【K-OS044】探訪日:2017/11.13
大阪府羽曳野市西浦6丁目2
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により484?(清寧天皇5)年に崩御した第22代・清寧天皇の陵に治定されている。遺跡名は白髪山古墳といい、出土した円筒埴輪の破片の特徴から6世紀前半に築造されたものと考えられている。墳丘長さ115m、前方部の幅128m,高さ11m、後円部は直径63m,高さ10.5mの前方後円墳である。前方部の幅が後円部の幅の約2倍あるのが特徴である。
白髪皇子は雄略天皇の第三子で、生まれた時から白髪であったといわれる。雄略天皇が崩御すると、星川皇子の乱が勃発したが、白髪皇子を守るようにと雄略天皇から遺詔に受けていた大伴室屋と東漢直掬がこれを鎮圧した。白髪皇子は磐余甕栗宮を造営し、480?(清寧天皇元)年に即位したとされる。しかし、在位は4年間と短く政治を行った記録もなく、后妃,皇子女もいなかったため実在や即位を疑う説もある。
なお、清寧天皇は皇統の絶えるのを恐れ、父が殺害した市辺押磐皇子の王たちを播磨の国から宮中に迎え入れた(天皇崩御後とされる)。億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟である。