天武・持統天皇檜隈大内陵(野口王墓)
てんむ・じとうてんのう ひのくまのおおうちのみささぎ(のぐちのおうのはか)
(Hinokuma Ouchi Mausoleum of Emperor Tenmu and Jito [Noguchi Imperial Tomb])
【K-NR022】探訪日:1992/10.31・2017/8.27
奈良県高市郡明日香村野口45
【MAP】
〔駐車場所〕
宮内庁により野口王墓が檜隈大内陵として第40代・天武天皇,第41代・持統天皇の陵に治定されている。墳丘は現在東西約58m,南北径45m,高さ9mの円墳状であるが、本来の墳形は八角形の五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされる。
686(朱鳥元)年10月1日に天武天皇が崩御すると、687(持統元)年10月に大内陵が築かれ、688(持統2)年11月に誅が終わり天武天皇が埋葬された。703(大宝2)年1月13日に崩御した持統天皇は703(大宝3)年12月に飛鳥岡にて火葬され、大内山陵に合葬された。天皇の火葬は持統が最初である。
本古墳は1235(文暦2)年に盗掘に遭い、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したために石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬され銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、中の遺骨は近くに遺棄されていたという。
また、野口王墓が天武持統合葬陵であると治定されるまでには、紆余曲折があった。近世に入り、野口王墓と見瀬丸山古墳のどちらが天武・持統合葬陵であるかが不分明となり、1734(享保19)年頃には天武持統陵は見瀬丸山古墳とされ、野口王墓は文武天皇陵に比定された。この論戦(混乱)は150年あまり続き、1881(明治14)年2月に正式に野口王墓が天武・持統合葬陵として治定された。
673(天武天皇2)年、大海人皇子が壬申の乱に勝利して即位し、天武天皇となる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。その治世は持統天皇の時代とあわせて、藤原京の造営,『日本書紀』と『古事記』の編纂推進,『大宝律令』の制定など日本の統治機構,宗教,歴史,文化の原型が作られた。また、「天皇」の称号や「日本」という国号もこの時代に定められた。