松平親氏,泰親,信光墓所〔信光明寺〕
まつだいらちかうじ,やすちか,のぶみつぼしょ〔しんこうみょうじ〕
(Graves of Chikauji,Yasuchika,Nobumitsu Matsudaira [Shinkomyo-ji Temple])
【K-AC046】探訪日:2016/2/28
愛知県岡崎市岩津町東山47
【MAP】
〔駐車場所〕
松平宗家3代松平信光が1451(宝徳3)年に岩津城の南に創建した信光明寺にある。向かって左より、初代松平親氏,2代松平泰親と松平信光の墓が並ぶ。
親氏は乞食僧として徳阿弥の名で諸国を流浪し三河国加茂郡松平郷に流れ着き、同地領主の松平信重の婿養子となり還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったとされ、松平郷の領主となった親氏は嫡子(兄弟説もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし(あるいは買得によって)勢力を拡大したという。諸説あるが、親氏は1361(康安1)年、泰親は1393(明徳4)年に没したとされる。ただし、いずれも実在を確信させる史料はない。
松平氏当主として系譜の史料で実在が確認できるのは信光からである。信光は岩津城を拠点とする岩津松平家の祖となり、戦国時代に入ると、安祥に進出するなど西三河を中心に勢力基盤を広げ、戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。長命で子も多く一説には48人の子供がいたという。自身の子を分立させ、竹谷松平家,安祥松平家(後の松平宗家),形原松平家,大草松平家,深溝松平家,能見松平家,丸根松平家,牧内松平家,長沢松平家が各地に置かれた。1488(長享2)年に岩津城で逝去した。
なお、松平宗家の墓所はこのほかにも大樹寺など各所に存在する。