本多秀清・早乙女一族墓所

ほんだひできよ・さおとめいちぞく ぼしょ(Graves of Hidekiyo Honda and Saotome Family)

【K-AC222】探訪日:2023/6.26

【K-AC222】本多秀清・早乙女一族墓所 愛知県岡崎市土井町蔵屋敷10 

【MAP】

〔駐車場所〕駐車場はないため、土井氏一族の発祥地(社口司社)前のスペースへ駐車させていただく。

【K-AC222】本多秀清・早乙女一族墓所

   土井氏一族の発祥地,土井城跡近くにある土井城主・本多豊後守秀清と、土井利勝が養子に入った早乙女一族の墓とされる。
 本多秀清は松平宗家5代・松平長親に仕え、1497(明応6)年に功あって碧海郡土井村を賜った。秀清は翌1498(明応7)年に没するが、その後は清重,信重,広孝が、1564(永禄7)年に田原城へ移るまでの66年間、土井城主として土井の地を守った。
 また、この地の豪族で徳川家に仕えていた早乙女小左衛門正利(土居利昌)に水野利勝が養子に入り、土井利勝となる。ただ、その利勝の出生と育ちは定かではなく、土居利昌の実子説のほか、水野信元(家康の叔父)の庶子として1573(天正元)年に浜松城で生まれ、のちに土居利昌の養子になったという説、利昌の娘に産ませた家康の隠し子で水野信元の養子となり、信元が武田への内通の容疑で殺されると利昌の養子にされたという説(家康落胤説)もある。土居姓から土井姓へは家康の命により、利勝の代に改められた。土井利勝は晩年には大老まで昇りつめ、名実ともに江戸幕府の最高権力者として、幕府の支配体制を確立した。なお、利勝の墓所は増上寺(東京都港区芝公園),正定寺(茨城県古河市大手町)にある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1498年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
本多秀清 F525 早乙女正利 G122 土井利勝 G122

 

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本多秀清の墓 早乙女一族の墓