深溝松平氏墓所〔本光寺〕
ふこうずまつだいらし ぼしょ (Graves of the Fukozu-Matsudaira Family[in Honko-ji Temple])
【K-AC188】探訪日:2013/5/3・2021/12/16
愛知県額田郡幸田町深溝内山
【MAP】
〔駐車場所〕本光寺の北西に駐車場がある。
本光寺にある深溝松平氏の墓所である。大きく西御廟所と東御廟所に分かれている。歴代深溝松平氏の遺体は、島原移封後も本光寺に運ばれて埋葬された。
西御廟所には、戦国時代に深溝松平家の基礎を築いた初代・松平忠定から4代・家忠と5代・忠利の肖影堂、6代・松平忠房の長男・松平好房の「孝子廟」、島原藩主である11代・松平忠恕の廟がある。
初代・松平忠定は兄の五井城主の松平長勝(元心)に深溝城を譲られ深溝松平家の祖となった(1531年没)。2代・松平好景は1561(永禄4)年の善明堤の戦いで戦死(松平好景戦死の地)。3代・松平伊忠は1575(天正3)年の長篠設楽原の戦いで戦死している(松平伊忠戦死の地)。また、4代・松平家忠のとき、徳川家康の関東移封に従って深溝を離れ、1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。家忠は『家忠日記』の著者としても知られる。
1601(慶長6)年、5代・松平忠利のときに関ヶ原の戦功により父祖の旧領深溝に1万石の大名として再び戻った。忠利の廟所は肖影堂として残されている(1632年没)。島原藩初代藩主となった6代・松平忠房の長男で夭逝(1669年・享年21)した松平好房の「孝子廟」は、忠房夫婦の吉田神道崇敬により神殿型の墓標であり、以後、歴代当主の墓標形式となった。また、島原藩主のうち11代・松平忠恕の廟だけが西御廟所にある。忠恕は一時期、宇都宮藩へ移封となるが再び島原藩へ戻されると「島原大変(普賢岳激震と大崩落)」が発生し、被災地巡視など心労が重なり過労死したとされる(1792年没)。
1669(寛文9)年、6代・松平忠房のとき6万5900石で肥前国島原の初代藩主となった。忠房の室・永春院の逝去(1686年)を契機に新たに東廟所が造営された。全体を石垣と築地塀が囲み、正面に薬医門が建つ。東御廟所には、永春院のほか、11代を除く6代・松平忠房から18代・松平忠和(以上、島原藩主)と1934(昭和9)年に亡くなった19代・松平忠諒の神殿型標墓が並んでいる。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(2014年3月18日指定) |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代 | 大正時代 | 昭和時代:前期 |
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関連年号 | 没年は概要,系図を参照 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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松平忠定 | MT09 | 松平好景 | MT09 | 松平伊忠 | MT09 |
松平家忠 | MT10 | 松平忠利 | MT10 | 松平忠房 | MT11 |
鍋島勝茂娘(永春院) | F975 | 松平好房 | MT11 | 松平忠雄 | MT11 |
松平忠俔 | MT11 | 松平忠刻 | MT11 | 松平忠祇 | MT11 |
松平忠恕 | MT11 | 松平忠馮 | MT11 | 松平忠侯 | MT11 |
松平忠誠 | MT11 | 松平忠精 | MT11 | 松平忠淳 | MT11 |
松平忠愛 | MT11 | 松平忠和 | MT11 | 松平忠諒 | MT11 |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
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▲肖影堂(5代・松平忠利廟所)
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▲11代・松平忠恕公廟
▲11代・松平忠恕の墓
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▲初代~4代の墓所
▲右から初代・忠定,2代・好景,3代・伊忠,4代・松平家忠の墓
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▲左:4代・松平家忠,右:3代・伊忠,の墓
▲左:,2代・好景,右:初代・忠定の墓
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▲松平好房の孝子廟
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▲東御廟所入口
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▲薬医門
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▲右から6代・松平忠房,妻の永春院,7代・松平忠雄の墓
▲6代・松平忠房の墓
▲忠房の妻・永春院の墓
▲7代・松平忠雄の墓
▲8代・松平忠俔の墓
▲9代・松平忠刻の墓
▲10代・松平忠祗の墓
▲12代・松平忠馮の墓
▲13代・松平忠侯の墓(左は14代・忠誠の墓)
▲14代・松平忠誠の墓(右は13代・忠侯の墓)
▲15代・松平忠精(左),16代・松平忠淳の墓
▲17代・松平忠愛(左),18代・松平忠和の墓
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▲19代・松平忠諒の墓
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