中御門天皇月輪陵
なかみかどてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Nakamikado)
【K-KT059】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1737(元文2)年5月10日、宝算36で崩御した第114代・中御門天皇〔在位:1709~35年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
東山天皇の第五皇子で、母は櫛笥隆賀の女の櫛笥賀子(新崇賢門院)。諱は慶仁、幼名は長宮。
東山天皇には櫛笥賀子が産んだ一宮,二宮,寿宮(四宮)と冷泉経子が産んだ三宮がいた。一宮・二宮が早世したこと、三宮が天皇の両親である霊元上皇と松木宗子に寵愛されていたことから、三宮が次期皇位継承の有力者とみられていた。しかし、三宮の本当の父は天皇の弟である京極宮文仁親王だという噂が流れ、東山天皇は寿宮が誕生すると前関白近衛基熙と相談の上、霊元上皇の反発を無視して三宮を円満院門跡に入れ皇位継承から外すことを幕府に了承を得た。ところが、1701(元禄14)年11月に寿宮が早世してしまう。このため、一旦皇位継承問題は白紙に戻るかに思われたが、翌月になって懐妊中だった櫛笥賀子が五宮(長宮)にあたる男子を生んだため、寿宮に代わる次期皇位継承者として大切に育てられていた。
1708(宝永5)年2月16日、立太子が行われた。東山天皇は早急に譲位を行って自らが院政を行って父の霊元上皇の政治的影響力を削ぐ方針であり、10月には将軍・徳川綱吉に来年には譲位する旨を伝えた。しかし、翌年1月に綱吉が急死。そのため、綱吉の養子(実際には甥)である家宣に対する将軍宣下と慶仁親王への譲位のどちらを優先すべきか、という新たな問題が発生した。そして、家宣の義父でもあり故実に詳しい近衛基熙の見解に基づき、家宣が五十日の御忌を経た後に将軍宣下を受け、その後に譲位が行われることになった。これにより、東山天皇から徳川家宣への将軍宣下は5月1日に、東山天皇から慶仁親王への譲位は1か月余り後の6月21日に実施されることになった。
1709(宝永6)年6月、東山天皇から譲位されて即位。9歳で即位したため、はじめ父の東山上皇が院政を行うが、同年12月に上皇と母の櫛笥賀子が天然痘で崩御。このため、祖父の霊元上皇が復帰して院政を行った。また、母方の祖父の櫛笥隆賀夫妻が天皇が15歳になるまで御所内に部屋に与えられて養育に関与した。
1729(享保14)年には将軍・吉宗が自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を受けている。この際、拝謁した象が前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は感銘を和歌に表している。
1735(享保20)年3月、桜町天皇に譲位し、1737(元文2)年に崩御した。ちなみに、天皇の側近であった広橋兼胤の日記によれば、天皇は十二支の巳に縁があり、生年が巳年というだけでなく、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1737年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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中御門天皇 | K608 |
<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>