佐々木道誉墓所〔勝楽寺〕

ささきどうよ ぼしょ〔しょうらくじ〕(Grave of Doyo Sasaki [Shoraku-ji Temple])

【K-SG009】探訪日:1992/4.25・2017/6.19

【K-SG009】佐々木道誉墓所 滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4

【MAP】

〔駐車場所〕

   1373(文中2/応安6)年8月25日、勝楽寺にて享年78で卒去した佐々木道誉の墓所である。墓所は京極氏の菩提寺である米原市清滝の徳源院にもある。
 近江を本拠地とする佐々木氏の分家京極氏に生まれた。初めは鎌倉幕府執権・北条高時に御相伴衆として仕え、高時より1字を受けて「高氏」と名乗り、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。
 のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。尊氏が薨去した後は、2代将軍・義詮時代の政権において政所執事などを務め、義詮の絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免権を握り、事実上の幕府の最高実力者として君臨した。なかでも当初は友好的な関係を築いた斯波高経とはやがて確執が生まれ、一時は高経の下風に立ち、高経に面目を潰されるが、導誉の策略により最後は高経を失脚に追い込んだ(貞治の変)。
 身分秩序を無視し権威を軽んじて反発し、派手な振舞いや華美な服装を好む「ばさら」と呼ばれた美意識をもつ婆娑羅大名のひとりとしても知られる(「ばさら」は戦国時代になると、「うつけ」や「カブキ」と呼ばれた)。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 南北朝時代
関連年号 1373年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
佐々木道誉 G759 足利尊氏 G332 斯波高経 G336

 

【K-SG009】佐々木道誉墓所
  

 

【K-SG009】佐々木道誉墓所

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