将門塚
まさかどづか(Masakadozuka, Grave of Severed Head of Masakado Taira)
【K-TK001】探訪日:2023/9.16
東京都千代田区大手町1丁目2-1
【MAP】
〔駐車場所〕
940(天慶3)年、平将門の乱を起こした平将門は、藤原秀郷,平貞盛らの追討軍によって討たれ(享年38)、首級は京都で獄門にかけられたが、三日後に持ち去られて武蔵国豊島郡芝崎の神田明神の近くに葬られた。伝承では、将門の首が故郷恋しさに獄門を抜け出し東方へ飛び去り、この地に落ちたとされ、村人は恐怖し塚を築いて埋葬したという。首塚は、かつては盛り土があったことから、古墳であったとも考えられている。
その後もこの地では疫病が流行するなど、村人は将門の祟りとして苦しんでいた。1307(徳治2)年、諸国を遊行回国中であった他阿真教上人は、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を追贈し首塚の上に自らが揮毫した石板塔婆を建て、日輪寺で供養し、傍らの神田明神に御霊を合わせ祀った。日輪寺は、神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。
平将門の乱は、もともと平氏一族間の私闘であり、そのなかで将門は勢力を拡大した。やがて受領(国司のもとで働く行政責任者)と地方富豪層の間の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し、関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛,藤原秀郷,藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。
歴史上は朝敵とされたが、続く自然災害や役人の横暴に苦しめられていた当時の東国の民にとっては、将門に対する期待と同情は大きく、その後の東国の平氏武将の崇敬を受けている。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれた。
将門の祟り伝説とされる事件,事故はいくつか残されている。江戸時代には仙台藩・原田宗輔による刃傷沙汰が発生している(伊達騒動)。第二次世界大戦後、GHQが丸の内,大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去,造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めている。そのため、大手町周辺が高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや移転を免れて残されてきた。現在の将門塚は2021(令和3)年春に整備されたものである。