重源上人墓所
ちょうげんしょうにん ぼしょ(Grave of Saint Chougen)
【K-NR006】探訪日:2018/10.21
奈良県奈良市川上町728
【MAP】
〔駐車場所〕
1206(建永元)年、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺を復興し、86歳で入滅した俊乗房重源上人の墓所である。
1133(長承2)年、真言宗の醍醐寺に入り出家する。のち、浄土宗の開祖法然に浄土教を学んでいる。重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧であり、伽藍修造などの理財管理や建設技術,建築術を習得したといわれ、帰国後には舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになった。
1180(治承4)年、東大寺は平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分,大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。1181(養和元)年、重源は被害状況を視察に来た藤原行隆に東大寺再建を進言し、東大寺勧進職に就く。東大寺の再建には財政的,技術的に多大な困難があったが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者,職人を組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集めた。1185(文治元)年、大仏の開眼供養が行われ、1195(建久6)年には大仏殿を再建し、1203(建仁3)年に総供養を行っている。以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。
総供養から3年後の1206(建永元)年に86歳で入滅された。重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。
東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、運慶の作ともいわれる「重源上人坐像」(国宝)が祀られているほか、浄土寺(播磨別所,重文)・新大仏寺(伊賀別所,重文)・阿弥陀寺(周防別所,重文)にも重源上人坐像が現存する。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 鎌倉時代 |
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関連年号 | 1206年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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重源上人 | KI21 |
東大寺再建の偉業を成し遂げた上人の墓所としては、見つけづらくこじんまりとしている。
俊乗房重源上人坐像