源朝長墓所〔積雲院〕

みなもとのともなが ぼしょ〔せきうんいん〕(Grave of Tomonaga Minamoto [Sekiun-in Temple])

【K-SZ048】探訪日:2024/5.11

【K-SZ048】源朝長墓所 静岡県袋井市友永678

【MAP】

〔駐車場所〕積雲院の参詣者用駐車場が利用できる。

【K-SZ048】源朝長墓所

   1159(平治元)年12月29日、平治の乱に敗れ、父・源義朝ら一行と京から東国へ向かう途中、美濃国青墓にて死亡した源朝長の墓所(首塚)である。享年18。のちに弟の源頼朝によって積雲院が建てられた。
 1159(平治元)年12月9日の平治の乱で平清盛らに敗れた源義朝,子の義平,朝長,頼朝および郎等の源義隆(叔父;森冠者,陸奥冠者),鎌田政清らは再起をかけ勢力基盤である関東へと敗走するが、大原の竜下越で比叡山僧兵の落人狩りに遭い、義隆は首筋に矢を受けて落命、朝長も左腿に矢を受けてしまう。一行はなんとか僧兵を蹴散らして先へ進み、近江国堅田の浦で義隆の首を湖に沈め、その後逃亡を続けた。その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。一行は美濃国青墓宿に着き、義朝の妾の一人・延寿の大炊家屋敷でもてなされて休息した。ここから長男の義平は一行と別れ東山道へ向かった。義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否し、父の義朝に頼んで殺害してもらったという。その後、義朝一行は尾張国内海荘司・長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田政清とともに殺害された。義平も正月18日、難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられ、六条河原で処刑された。頼朝は2月9日、頼盛の郎等・平宗清に捕えられたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命された。
 朝長の亡骸は大炊氏によって丁重に埋葬されたが、やがて平氏の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首を取られて、京の六条河原に義朝らとともに晒された。朝長の首は家来だった大谷忠太が奪い返し、大谷の故郷であった遠江国豊田郡友永村に持帰り埋葬した。
 墓は積雲院入り口近くの小さな廟に義朝,義平の石塔とともに並ぶ。なお、地名の「友永」は朝長に由来するという。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:後期
関連年号 1159年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
源 朝長 G202 源 義朝 G202 大谷忠太 ****

 

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