桜町天皇月輪陵
さくらまちてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Sakuramachi)
【K-KT060】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1750(寛延3)年5月28日、宝算31で脚気衝心により崩御した第115代・桜町天皇〔在位:1735~47年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
中御門天皇の第一皇子で、母は近衛家熙の女の近衛尚子(新中和門院)。諱は昭仁、幼名は若宮。母の尚子は若宮誕生から20日目に急逝している。
しかし、同年10月には儲君に定められ、11月には親王宣下が行われている。生母が不在であったために曾祖母の六条局(中御門天皇の外祖父の櫛笥隆賀の妻の西洞院時子)や外祖父の近衛家熙が養育の中心となった。1728(享保13)年6月に立太子、1735(享保20)年に父帝の譲位により践祚。即位直後は朝遅く起きて、昼近くに朝食を召し、夜遅くまで起き、学問よりも蹴鞠を好むと、右大臣の一条兼香を嘆かせているが、後に関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍・徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭,奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めていたことが窺える。また、皇嗣の「実母」は天皇の正配(正当の配偶者)が務めてその養育も正配が行い、「生母」や外戚の立場を認めないこと、合わせて、女官に対する女叙位の復活など女官制度の立て直しを行った。
1747(延享4)年、桃園天皇に譲位して桜町殿で院政を開始するが、1750(寛延3)年に脚気衝心により31歳で崩御した。天皇は幕府からの干渉を避けるために院政による政治運営を行う狙いがあったと考えられている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1750年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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桜町天皇 | K608 |
<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>