孝元天皇劔池嶋上陵
こうげんてんのう つるぎのいけのしまのえのみささぎ
(Tsuruginoike-shimanoe Mausoleum of Emperor Kougen)
【K-NR011】探訪日:1992/10.31・2017/8.27
奈良県橿原市石川町
【MAP】
〔駐車場所〕
宮内庁により第8代孝元天皇の陵に治定されている。中山塚1~3号墳と呼ばれ、円墳2基、前方後円墳1基の三つの墳丘からなっており、そのうちの前方後円墳が治定陵。1863(文久3)年に孝元天皇陵と治定され大改造を行ったとされている。石川池の脇に半島のように突き出している。
孝元天皇陵が劔池嶋上陵と比定されている根拠は、『日本書紀』に、孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御し、皇位を継いだ第二子の開化天皇が即位から5年後に、父の遺骸を劔池嶋上陵に埋葬したと記されていることによる。しかし、孝元天皇は欠史八代の一人で実在しない天皇と捉える見方が一般的であり、異母姉妹に箸墓古墳の被葬者に比定されている倭迹迹日百襲姫や子の四道将軍の大彦命、第10代崇神天皇の御世に反逆する武埴安彦命、また、孫にあたる建内宿禰は有名であるが、天皇本人の事績は伝わっていない。
『日本書紀』には、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池,鹿垣池,厩坂池と共に剣池を造った、とある。その剣池に比定されているのが、この陵を取り囲む石川池とされる(周濠ではない)。古来、池底に剣が埋まっていると伝えられ、剣の池に蓮が広がり清く澄んでいたことから「清隅の池」とも称された。635(舒明天皇7)年と644(皇極天皇3)年には、一本の茎に二つの花を咲かせている蓮が剣池で見つかったと伝えている。蘇我蝦夷は勝手に、「これは蘇我氏が栄える前兆である」と喜び、金泥でその絵を描いて飛鳥寺の丈六の仏に供えたとされるが、翌645年、乙巳の変によって蘇我本宗家は滅亡に追いやられている。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 伝承の時代(古墳時代:前期) | 江戸時代:後期 |
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関連年号 | 1863年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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孝元天皇 | K004 | 開化天皇 | K004 | 倭迹迹日百襲姫 | K004 |
大彦命 | K007 | 武埴安彦命 | K004 | 建内宿禰 | K008 |
蘇我蝦夷 | SG02 |
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