用明天皇河内磯長原陵(春日向山古墳)
ようめいてんのう こうちのしながのはらのみささぎ(かすがむかいやまこふん)
(Kochi-shinaganohara Mausoleum of Emperor Yomei [Kasugamukaiyama-Kofun Tumulus])
【K-OS032】探訪日:2017/9.24
大阪府南河内郡太子町春日
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により587(用明天皇2)年に崩御した第31代・用明天皇の陵に治定されている。形状は一辺が約60mの大型方墳。遺跡名は春日向山古墳といい、古墳時代終末期の7世紀前半頃の築造と推定される。本古墳が用明天皇陵であれば、天皇陵としては最初の方形墳である。なお、用明天皇は崩御後は一旦、磐余池上陵に葬られ、593(推古天皇元)年9月に河内磯長陵に改葬された。
2012(平成24)年2月に遺跡としての立入り調査が実施され、墳丘は3段築成と推測され、東西65m,南北60m,高さ10mで墳丘周囲には空壕(幅7m)が巡らされており、壕の外堤(土塁)まで含めた古墳全長は東西100m,南北90mにおよぶことがわかっている。また、墳丘表面で埴輪は認められず、主体部の埋葬施設は明らかでないが、古文書では横穴式石室の可能性が示唆されている。
用明天皇は585(敏達天皇14)年に即位し、仏法を重んじて王朝において仏教を公認したことで、のちの仏教隆盛につながった。しかし、疱瘡のために在位2年足らずで崩御。明治になって仲恭天皇と弘文天皇が追贈されるまでは在位期間が最も短い天皇であった。また、法隆寺の建立は、用明天皇の病気平癒のために天皇の願いを受けて、子の厩戸皇子が誓ったとする説がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 古墳時代:後期 | 飛鳥時代 |
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関連年号 | 587年 | 593年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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用明天皇 | K302 | 厩戸皇子 | K303 |
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