武藤氏一族墓所〔香勝寺〕
むとうしいちぞく ぼしょ〔こうしょうじ〕(Graves of the Muto Family[in Kosho-ji Temple])
【K-SZ024】探訪日:2021/1/6
静岡県周智郡森町草ケ谷968
【MAP】
〔駐車場所〕
1967(昭和42)年、香勝寺の本堂再建に伴う工事で須弥壇真下から多くの宝篋印塔が発見された。これは香勝寺を菩提寺とした武藤氏一族の墓と推察され、寺後方の丘の上に移された。
武藤氏は藤原秀郷の流れを汲み、武藤頼平の三男の五郎頼高は源頼朝の臣・安田義定の五家老の一人として、義定が1180(治承4)年に遠江守に任ぜられた際に一宮領の代官(目代)として当地に移り住んだ。そして、1194(建久5)年に義定が謀反の疑いで梟首されたときに殉死している。五郎の子孫は戦国時代まで土地の豪族としてこの地に住み続けた。
1432(永享4)年、武藤用定は一宮代官職の大谷豊前入道玄本と争って代官職についた。中央の大きな宝篋印塔は用定あるいはそれ以降の地頭のものと思われる。室町時代中期には草ヶ谷に居を構えていたとされる。用定の末裔の武藤氏定は1545(天文14)年に草ヶ谷城の跡地に香勝寺を開き、菩提寺とした。また、氏定は一宮小國神社の武家神主であったとも言われている。1581(天正9)年、氏定が高天神城の戦いで戦死すると、一族は帰農したとされる。