斎藤妙椿墓所〔瑞龍寺〕

さいとうみょうちん ぼしょ〔ずいりょうじ〕(Grave of Myochin Saito [in Zuiryo-ji Temple])

【K-GF020】探訪日:2024/1.14

【K-GF020】斎藤妙椿墓所 岐阜県岐阜市寺町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-GF020】斎藤妙椿墓所

   1480(文明12)年2月21日、斉藤妙椿は享年70で病死し自らが建立した瑞龍寺に葬られた。美濃国守護で主君の土岐成頼の墓と並んでいる。墓石はなく、わずかに60cmの土盛りがある。
 幼少時に出家し善恵寺で修行した後、善恵寺に子院・持是院を構え、長い間、僧として持是院で生活を送っていたが、1460(長禄4)年の兄・斎藤利永の死去にともない、甥(利永の子)である新守護代の斎藤利藤を後見するため加納城へ移った。美濃守護・土岐成頼の被官ではあるが、後に室町幕府奉公衆となり、官位も土岐成頼を超えて従三位権大僧都に昇っている。1468(応仁2)年には、土岐成頼の菩提所として瑞龍寺を建立している。
 応仁の乱では成頼と共に山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり美濃国内を平定し、さらには近隣諸国へも進出して、多くの荘園を押領し主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。妙椿の意向で土岐成頼は1477(文明9)年冬、足利義視,義材父子を連れて美濃に下国している。
 1479(文明11)年2月、可児郡明智で隠退し、翌年2月に腫れ物を患い死去した。
 甥で養子の斎藤利国(妙純、利藤の異母弟)を重用するよう成頼に遺言したため、死後100日を経ずして利国と利藤の兄弟争い(美濃文明の乱)が勃発する。

【史跡規模】

【指 定】岐阜県指定史跡(1972年3月17日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1480年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
斎藤妙椿 F864

 

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