新野親矩墓所〔龍潭寺〕
にいのちかのり ぼしょ〔りょうたんじ〕 (Grave of Chikanori Niino[in Ryotan-ji Temple])
【K-SZ004】探訪日:2013/5/3
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
【MAP】
〔駐車場所〕
今川氏家臣で遠江国新野新城(舟ケ谷城)主。今川義元が桶狭間の戦いで戦死した後、今川氏は急速に衰えていくが、親矩は氏真に忠節を尽くした。
1562(永禄5)年、遠江の国人であった井伊直親は、小野道好の讒言により謀叛の嫌疑を掛けられ、掛川にて横死した。氏真は直親の嫡子虎松(のちの井伊直政)の殺害も命令したが、親矩は氏真に命乞いをして、直親の未亡人おひよと虎松を屋敷に保護し、井伊氏の歴史で最大の危機を救った。
その後も今川氏の衰退は止まらず、1563(永禄6)年からは遠江国衆の曳馬城主・飯尾連竜が犬居城主の天野景泰・元景父子,二俣城主・松井宗恒らと共に今川氏に謀叛を起こしたが(遠州錯乱)、親矩はこのときも弟・之規と共に今川方として戦い、引馬城を攻めた際に三浦正俊,中野直由らと共に討死にした。なお、異説(『武家事紀』)では、1565(永禄7)年12月20日に飯尾連竜が駿府で誅殺された際、打手の大将として連竜の立て篭もる屋敷を攻め、この戦いで戦死したとされている。親矩は死後、左馬武神社に祀られる。