奥平貞勝墓所
おくだいらさだかつ ぼしょ(Grave of Sadakatsu Okudaira)
【K-AC108】探訪日:2020/3/25
愛知県岡崎市明見町田代89
【MAP】
〔駐車場所〕
今川・織田・徳川・武田の四勢力に囲まれ、波乱に満ちた戦国時代を生き抜いた奥平九八郎貞勝の墓である。
1530(享禄3)年、松平清康の宇利城攻めに従軍するも、守山崩れで清康が横死し松平氏が弱体化すると今川氏に転属した。
1556(弘治2)年、前室の縁で水野信元からの織田家への誘いを受けると、これに応じて今川氏を離反。さらに縁戚の田峯菅沼氏を誘って蜂起した(主導者は息子の貞能とされる)。今川方の秦梨城への先制攻撃を敢行し秦梨城主・粟生将監永信を退散させ、また、今川方の鎮圧軍である東条松平勢を弟の貞直が日近城での籠城の末に撃退した(日近合戦)。しかし、今川義元の軍令を受けた菅沼定村や本多忠俊らに雨山合戦で敗れ、貞直を処分することで離反の罪を赦免され今川氏再属を余儀なくされた。
1560(永禄3)年5月、桶狭間の戦いで今川義元の尾張侵攻に参戦し松平元康の与力として大高城への兵糧入れを支援するが、義元が討たれると自領に退却した。今川氏の三河支配権回復が見込めないことを確信したうえで家康へ転仕した。1568(永禄11)年12月、徳川家康の遠江侵攻に嫡子の貞能を参戦させている。
1570(元亀元)年秋、奥平諸将が密かに久保城に集まり、一族存続のため武田方と徳川方の両方に分かれてつくことを決めた(久保城の密談)。武田軍が三河侵攻してきた1571(元亀2)年以降には、家康服属を説く貞能に対し、貞勝は次子の常勝など少数派とともに武田氏服属を決定した。長篠設楽原の戦いで武田方が大敗し、貞能が徳川氏,織田氏の後押しで勢力を伸ばすと、貞勝は常勝らとともに三河の所領を放棄して甲斐に移住した。
やがて、武田氏滅亡で甲斐に留まれなくなった貞勝は、子の貞能を頼って三河額田郡に隠棲した。武田滅亡後に家康への再属を願い出た三河出身者には厳しい処分が下されたが、老齢の貞勝は咎められなかった(常勝は殺された)。その後、貞勝は出家して道文入道と号し1595(文禄4)年に享年84で没した。
貞勝の墓は左端の宝筐印塔で基礎の正面に奥平平九八郎の刻銘がある。向かってその右側の五輪塔が常勝の墓といわれている。